Diary                      2011


2011年11月11日(金)
福岡市住民投票条例の署名活動を終えて 












先週、1ヵ月に及ぶ署名活動が終わった。福岡市住民投票条例制定の為の署名、その結果は予想に反し、法定数を大幅に下回るものだった。正直、完全に力が抜けた。私自信、介護と仕事の合間をぬっての署名活動で時間もなく、体はへとへと。それでも友人やメーカー企業の協力もあり、93名の署名を頂くことができた。それ故、法定数ぎりぎりのところで、どうにかいけるだろうと鷹をくくっていた。よもやこれほどに少ない署名数とは、想像もしていなかった。今回、改めて福岡市民の市政に対する無関心さを痛感することとなった。

最も、署名活動を振り返えってみると、いくつかの問題が足かせになったことがわかる。それは第一に、市民に対しての周知が、完全に不足していたということである。私自身、署名開始直前にこの活動の存在をツイッターで知った程。それからすぐさま受任者となったが、当初は住民投票のしくみがよく把握できていなかった。何しろ福岡市での住民投票は、初めてだというから無理もない?受任者となり「フクオカ住民投票の会」から送られてきた資料を読み、初めてその内容が具体的に理解できた。それらを考えると、活動に対する事前の準備不足、それによる受任者不足が決定的な原因であったと実感した。事実、殆どの人が九電に対する不信感と原発に対する不安から署名に賛同されていた。

各区の署名結果
1107.pdf へのリンク


かくして1回目の戦いは敗れたが、これで終わりではない。戦いは始まったばかり。何より玄海原発に関しては、福岡市と九電との間で安全協定を締結させることが急がれる。このところ九電は静寂を保っているが、これは市民が「やらせメール問題」から関心が薄れるのを待っているかのように思える。このまま、何のお咎めもなくこの問題を終わらせるわけにはゆかない。更に、こども病院問題においては、新たに福岡市の嘘が発覚し、移転・建設に向け問題は山積である。しかし、多くの市民は終わったものだと思っている。それをいいことに、福岡市は惚けたふりをしている。こちらも九電同様、腐りきっている。今回の住民投票は敗北したが、今後の私の市政活動の原動力になったことは確か。
ということで、私の挑戦はこれからも続くことになった。


しかし、お陰で山が遠のいた。今年は春のミヤマ登山も夏のアルプス登山も秋の紅葉登山も全て断念。
こちらの挑戦は、完全にお預け状態。
今はとにかく、山へ行きた〜い!




フクオカ住民の会・署名活動の報告はこちら
大事なコトは市民が決める!住民投票実現アクション
http://fukuokavote.blog.fc2.com/










2011年9月12日(月)
震災から半年



ススキ野原(英彦山スキー場)



 
ボタンクサギ(別名:ヒマラヤクサギ)




英彦山神宮奉幣殿(標高720m)


少し標高の高い所では、ススキが風に漂う季節となった。あれから半年、悲しいかな被災者の思いとは裏腹に季節だけが過ぎていく。昨日のNHK、震災半年の特別番組をやっていたが、見るのも虚しくなる。まして被災地の生中継に、凡そ相応しくない格好の司会者を見れば、その気も失せる。

東北の津波被災地は、瓦礫などが片付き一見過去のものとなりつつある。しかし、まちの再生には気が遠くなる程の時間と労力が必要だ。それ以上に長い時間を要するのが、放射能。その汚染は、今全国に拡散しつつある。ここ九州にもその影は忍び込んでいる。





それもこれも、国が掲げた(ツイッターでは発言してないが)馬鹿な"食べて応援"のせいである。それだけではない。放射能汚染瓦礫の痛み分けまでしろと言うのだから、殆ど正気の沙汰ではない。すべきことは全く逆。放射能汚染瓦礫は福島に閉じ込め、福島の人を県外に退避させる。そして皆の手で痛み分けする。これがまともな考えだ。

この異常な民主党政権になって、9月16日で2年となる。この2年間で失ったものは余りに大きい。予測はしていたが、ここまで酷いことになるとは思わなかった。全ての国民が死ぬまで放射能を背負うことになろうとは。





先週末、英彦山へ行った。英彦山神宮奉幣殿も7年前の台風では大きな被害が出た。今月の台風12号では、熊野神社も大きな被害を受けた。紀伊半島では、100人以上の死者行方不明者。今年は一体どれ程の人が亡くなればよいのかと、嘆きたくなる。

気分転換に郊外へ出かけても、こういう状態では中々気も晴れない。今月末の連休、久々屋久島宮之浦岳に登ってみようかと思うのだが、災害が多い年だけに遠出は控えた方がいいか。明日は我が身ということもある。










2011年8月1日(月)
厚狭天神祭り



多くの露店と人で一杯の鴨橋(下は厚狭川)




懐かしの久永商店




最後の一発、大輪が夜空に舞う
(実家の2階から)



またまた厚狭の話題。毎年7月25日は、厚狭の天神様祭り。昨年は厚狭水害(下記事)の為中止となったが、今年は無事に開催され、花火大会は多くの人で賑わっていた。


私にとっては、おそらく40年ぶり?となる厚狭のお祭り。中学生の頃までは行ったような記憶があるのだが、その後はない。当時、旧山陽町では山陽オートレースが全盛期、まちの財政も潤っていたせいか、田舎の花火大会としては、それは盛大なものだった。






あれから40年、まちは昨年の水害からほとんど火が消えた状態。どれほどの人が集まっているのだろうと、夜偵察にでかけてみた。すると、まちはまるで40年前の光景が蘇ったかのように、人であふれかえっていた。そんな中、子供の頃によく行っていたお店がライトに照らし出されていた。ふと奥のほうを見ると、昔のままの木棚があった。何とも懐かしさで一杯になり、思わずシャッターを押していた。祭りの興奮をよそに、まるで次から次へと打ち上げられる花火のように、どんどんと思い出がこみ上げてきた。







それにしても、あれだけの人がどこからやって来たのだろう。最近は、花火大会専用のホームページがある程だから、周辺のまちからやって来た人も多かったのだろう。厚狭のまちであれだけの人を見たことはない。ネットの力とはすごいもの。
されど、賑やかだったのも一夜限り。翌日は、またいつもと変わらない静かな厚狭のまちに戻っていた。


これが、本当の真夏の夜の夢。
それは、子供の頃に戻ったよい夢だった。










2011年7月15日(金)
厚狭水害から1年




昨年の厚狭水害


今日は厚狭水害からちょうど1年。今年は昨年と違って梅雨が早く明け、暑い日が続いている。数日前見た厚狭川は、いつもとおりの穏やかな風景だった。しかし、町はあれ以来めっきり寂しくなってしまった。わずかに残っていた店も殆ど閉店してしまい人影もない。唯一人が集まる厚狭駅の外壁には、未だに”がんばろう”の垂れ幕がかかっていた。現在不通の美祢線は、9月末に全線開通するようだが利用客の減少が問題らしい。やはり人口の過疎化は進んでいるようだ。

このところ親の介護の為、厚狭で過ごす時間が多いが、昨日は福岡に帰っていて偶然テレビをつけていた。すると厚狭高というアナウンスが聞こえてきた。思わず画面に目をやると、懐かしい厚狭高の映像が流れていた。何かと思えば、暑い中体育館で体育祭をやっていた為に、多くの生徒が熱中症で病院に運び込まれたとかやっていた。母校ながら危機管理の無さに呆れた。まあともかく、後輩達が無事で良かった。

それにしても、厚狭水害からちょうど一年目、またしても厚狭が全国ニュースで取り上げられるとは。厚狭にとって7月15日は厄日ということなのかもしれない。

熱中症で34人搬送・・・山口・山陽小野田市の公立高









2011年5月10日(火)
大震災から2ヵ月


ふじの花
(大興善寺参道にて)




コアジサイ
(大興善寺境内にて)



モッコウバラ
(大興善寺参道の民家にて)




早いものであれから2ヵ月。下の写真の船「はまゆり」は、震災のシンボルとして保存の話が出ていたが、結局は解体されることになった。2ヵ月経った今、一番深刻なのは福島原発の放射能汚染。そして原発そのものの存在。政府は、そのリスクが最も高いとされる浜岡原発の停止を東部電力に要請した。マスコミは、これを菅総理のパフォーマンスだと騒いでいるようだが、今度ばかりはパフォーマンスでも何でもいい。もし今、同じ規模の地震が東海地方で起きれば、日本はおしまいだ。そうなってからでは遅い。






私はこの場で、民主党政権の危うさを何度も書き続けてきた。国民の命が危ないと言い続けてきた。しかし、とうとう本当に多くの人が死んでしまった。死なずに済んだ命もあっただろうと思うと残念でならない。更に放射能を浴び続けている子供たちがいる。しかし国は彼らを助けることすらできていない。その子供たちが将来においてどのような運命が待ち受けているか、それを思うとたまらなくなる。しかし、自分には何もできない。






こういう状態だから、震災以降遠出もしていない。自粛というよりその気にならない。もっとも今年は父の介護が始まって、山口と福岡を行き来しているからそんな時間もない。だがそろそろ山が恋しくなってきた。もうすぐ九重はミヤマキリシマの季節。久々、坊がつるでキャンプといきたいところだが、その前にシュラフ。先月、陸前高田市に送ったのでシュラフがない。もう在庫不足は解消しただろうか。

それにしても、今頃どうしているかな私のシュラフ。枕がわりにでもなってるかな。









2011年4月1日(金)
東北関東大震災(東日本大震災)



これは映画ではない
(photo by newyork times)





日本のマスコミは死を報道しない
(photo by newyork times)





集まった支援物資。私の寝袋も旅立ちます
(photo by kodohkan)

※鼓動館は野口健さんの呼びかけに立ちあがった
健さんのお友達です。ブログはこちらから
追記:現地報告(4.7)掲載あり



今日のタイトル。「今日はエイプリール・フールだから」と言えればどんなにかいいだろう。又そう思っている人がどれほどいるだろう。

3・11の東北関東大震災は、日本を大きく変えてしまった。戦後初めて2万人にも上る死者、予想も出来ない巨大津波の被害、そして目に見えぬ放射能の恐怖。どれをとっても今まで経験したこともない災いである。これ以上の不幸はない。そしてその不幸を更に大きくしているのが、いわんや今の政府である。震災直後の機能不全状態は、3週間経った今でも改善されていない。これを無知無能でなくして何と呼ぶ。怒りを通り越し情けない思いで一杯である。




しかし、その一方で日本国民のお行儀の良さには敬服する。これだけの災害に遭いながらと、アメリカをはじめ多くの国々が支援と共に我々日本国民を我慢強いと評価する。が果たしてそうだろうか。長い間、マスコミに操作され続け真実を知らされなかった国民がいるだけではないのか。怒りに満ちた国民が報道されないだけではないのか。この震災でそれが明確になったと言わざるをえないのではないか。いや、そういう話はまた何れの機会にするとして、今は只々亡くなられた方々の御冥福を祈るばかりである。







私一人では何もできなかったが、野口健氏の計らいで行われた寝袋プロジェクトのお陰で微力ながら被災地の方の支援をすることができた。私の寝袋を被災地に送ることができたのだ。これで一人の方が救われる。これほど嬉しいことはない。
荷物は明日、岩手県陸前高田市の被災地に届く。明日の今頃、私の寝袋で暖をとっている人がいる。

寝袋に括りつけた私のメッセージ
「力強く生き抜いて下さい。応援しています。」きっと心は伝わる。











2011年2月15日(火)
極寒の九重連山



久住分かれから望む三俣山(右)と硫黄山(左)
眼下に千里ヶ浜が広がる




完全氷結した御池(みいけ)
背後に中岳の頂上が見える



エビの尻尾を纏った中岳頂上
ガスがかかった大船山(右)と坊がつる(中央下)



法華院温泉山荘の談話室
この夜、居酒屋になり果てた



父の事があってからというもの、登山どころではなかったが、どうにか先週末、極寒の九重連山へ行くことが出来た。


寒波到来で12日の山の天候は大荒れ。ブリザードの中、久住避難小屋に到着。視界も悪く先へ進むのもどうかと思い、早々に法華院山荘へ向かった。今回は体調も今一つ、更に父の介護中ということもあり、恒例の氷点下でのテント泊は取りやめ、法華院山荘へ泊まることにした。






法華院山荘に到着すると、談話室で熟年団体が酒を囲み上機嫌な顔をして騒いでいた。何やら嫌な予感はしたのだが、それが的中。坊がつるキャンプ場から悪天候の為避難してきたテント組の若者達と、あの熟年団体の騒ぐ声が、消灯時間の10時を過ぎても談話室から響いてくる。午後12時近くなり我慢も限界に近づいたその時、一斉に部屋へ戻るような足音。幸か不幸か私の爆発は、未然で防ぐことが出来た。









翌日、寝不足ながらも天候は良好。まさに雪中登山日和。ここは気分を取り直し登山開始。北千里ヶ浜から久住分かれまで一気に登りつめ、急ぎ御池(おいけ)へ。このところ気温が上がっていたのでどうかと思ったが、この日の気温は−10℃、池は完璧に氷結し冷凍庫状態。その氷の上を恐る恐る渡って中岳へ向かう。頂上から見渡す限りの銀世界に暫し酔いしれ、無になったところで今年初の九重登山を終えた。








九重の山は、技術を持たない人でも簡単に登ることができる。それ故、山のルールを知らない人が、普段の生活と同じ調子で山にやってくる。法華院山荘はこうした人達にとって絶好の溜まり場になっている。しかし、そうではない。ここは山を愛する者の安らぎの場だ。もしくは悪天候の場合の退避場所である。だから山荘側は、もっと厳しい声を上げて良い。だが経営優先なのか何なのかよくわからないが静観状態である。これでは益々こういう輩が増える。わからない者には怒ることも必要だ。



それにしても山に行ってまで血圧が上がってしまうとは。これから一体どこへ行けばいいのやら。

写真は近日中、hobbyに掲載します。











2011年1月18日(火)
難所ヶ滝・三郡山




難所ヶ滝正面





難所ヶ滝側面上部から





急性期の病院に入院中だった父も、予想より早く療養型病床のある病院へ転院することができたので、こちらも少し休息を取ることにした。こうなれば、体は疲れ果てているものの行先は、もちろん山。その氷結具合が気になる難所ヶ滝(三郡山)へ直行した。













今年は寒さが厳しいこともあって、氷結具合のほうも上々。気温はおそらく氷点下6度くらいか。そんな中でも元気なのが中高年登山者である。ここ数年は、インターネットの影響かその数も一段と凄い。滝の手前100m位からの急こう配で登山者の渋滞が続く。子供連れの登山者、更には山ガールらしきファショナブルな女性など実に多種多様な風景である。


何はともあれ、また山に登れる幸せを感じながら、これまでの辛い看病生活が走馬灯のように駆け巡った。人間の生と死を目の当たりにした日々、二度と忘れることはできない病院での様々な出来事等。それらが、冷たい山の空気の中で一つ一つ蘇って来た。そして、まだまだこれから続く看病のことを思いながら大きく息を吸い込んだ。生き返った瞬間である。


また今年も色々な出来事があるだろうがこうして山はいつもと変わらず、やさしく私を受け入れてくれることだろう。













2011年1月10日(月)
新年







 病室より望む夕日
(手前は山陽小野田市街、海を挟み九州が写る)

新年明けましておめでとうございます。諸事情により暫くホームページを留守にしておりましたが、今年もよろしくお願い致します。



思えば昨年11月13日、明日は福岡市長選だと意気込んでいた丁度その時、突然の父危篤の知らせを受け、それまでの生活が一変、病院での看護生活が始まった。
心肺停止という状況から奇跡的に一命を取り留め、現在は体力も徐々に回復していることに、ただただ感謝の思いで一杯である。父の生命力もあったのだろうが、何より主治医と病院関係者のご尽力のお陰。そして、最後の親孝行だと思いつつ尽くした2ヶ月間の必死の看病が父に届いたのか。とにかく父と共に病室で新年を迎ることができた。



そういう訳でようやくホームページを更新することが出来ました。ここ2ヵ月間というもの、世の中の出来事から遠のき、更には恒例の九重忘年会登山も出来ず、そろそろ禁断症状が現れそうな状態ではありますが、山は暫くお預けとなりそうです。今年は九州の山も積雪が多いということですから、来月あたり極寒の九重連山を掲載したいところですが、果たしてどうなりますか。またまた気長にお待ち下さいますと幸いです。